リチャード・ハント 亦 Faheem Majeed, 彫刻家, シカゴ

英語から翻訳された

面接と執筆: Asha Veal Brisebois / 英語から翻訳された
original English version HERE

 Richard Hunt and Faheem Majeed

in dialogue at Mr. Hunt’s studio in Chicago, Illinois 

March 19, 2016


 

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Do you remember how we met? I remember it clearly, but you’ve met so many people you might not remember…


RICHARD HUNTリチャード・ハント)は、国内外で著名な彫刻家であり、1971年にニューヨークの近代美術館で個展を開く最初のアフリカ系アメリカ人の彫刻家となりました。ハント氏は、米国全土の公共彫刻のための125以上の注文作品を完了しました。彼の芸術的な活動に加えて、氏は芸術のための全国基金とスミソニアン機関の理事会でも務めています。

 

FAHEEM MAJEED (ファヒーム・マジッド) は、シカゴの芸術家兼彫刻家で、サウスサイド・コミュニティ・アートセンターの元ディレクターであり、またUIC School of ArtArt Historyの前副ディレクターでもあります。2015年春/夏に、マジッドはシカゴ現代美術館で初めての博物館単独ショーを開催しました。彼は現在、Floating Museum(浮遊博物館)で協力しています。浮遊博物館は創造的な場所造り、行動主義、展示デザインの融合プロジェクトです。


FAHEEM MAJEED: 我々がどうやって出会ったか、覚えてるかい?私は、はっきり覚えているけど、君は多くの人に出会っていても、ほとんど覚えてないものね。

リチャード・ハント  (RICHARD HUNT): 僕が覚えているのは、君は僕に電話を掛けながらここにきた。うーん、実際、君は君の話をしているよ。だって僕は君よりずっと年上なんだからって言い訳するからね。よく言われるけど、人は80代になると…。

Faheem: すべてがごちゃごちゃになり始めた。

リチャード (Richard): [笑い]

Faheem: 金属彫刻家として訓練を受けたから、鉄や作成プロセスに恋をして、ハワード大学で学んだんだ。リチャードは、キャンパスに3つの本当に偉大な作品を残した。だから、彼を知る人がいるんだよ。1

>リチャード (Richard): ハワードで教えていたシカゴ出身の金属彫刻家がいたんだ。

Faheem: 誰?ジェームズ・キングじゃないよね。1

リチャード (Richard): 何て名前なの?

Faheem: メル?

リチャード (Richard): 彼はバンパーで作業していた。

Faheem: メル・エドワーズじゃないよね?1

リチャード (Richard): 若いんだろ。ちゃんとしてよ!

Faheem: 記憶が…ちょっと!そんな時もあるんだよ。

リチャード (Richard): どうぞ先に進んで。邪魔してごめんなさい。

Faheem: 誰のこと言っているかわかってるよ。メル・エドワーズじゃない。私は彼が亡くなったころに入学したんだ。彼のスペースをきれいにするように頼まれた若者の1人だったんだ。君が正しい。彼が恋しいよ。

しかし、見せたいものがあったんだ。君が気付いていないであろうものを。ちょっと待って。どこだったかな。これを見たらびっくりするかもしれないよ。そうだ、3枚の写真を持っていてね、君と一緒に見たいと思っていたんだ。彫刻なんだけど、「A Bridge Across and Beyond」って言ってね、クランプトン公会堂の前にあるんだ。クランプトン公会堂には、金属スタジオがあって、「金属スタジオ」は素晴らしかった。大きなダンススタジオだったんだ。そこに金属彫刻家がいて、それは私なんだけど、他にちょっとした設備があって、ビル・テイラー3という名誉教授がいて、デビッド・スメドレー。いろんなものをスクラップしたりくっつけたりしたものだ。それが、早く学べた理由なんだ。

しかし、これが毎日通学する動機になった。4年間、リチャードの作品のそばを通った。そして、リチャードの「Symbiosis」も。私は…1

リチャード (Richard): わかった。それはキャンパスの反対側だね。

Faheem: アルファ・ファイ・アルファ1っていう社交会に入ってね、Symbiosisをプロットにしたんだ。全部持ってきたんだけどな。ちょっと待って。どこだろう。いつも君がこれを知っているかどうか気になってたから。リチャード、これを見たらびっくりするぞ。インパクト絶大だ。ああ、これがそれだよ。

[ビデオを再生。アクションと音楽が流れる]

これが最近投稿されたんだ。Symbiosisから始まって、この社交会の関係者の黒人の画像を見せるんだ。これは、ホームカミングビデオの一種だよ。彼らは、みな君の彫刻を持ってるよ。中心として含まれていたんだ。キャンパスに来ると、みなそれを取り囲んで、写真を撮るんだよ。どうして君が知らないのかわからないよ。

リチャード (Richard): 知らなかった。

Faheem: Symbiosisは崇拝されている。このチャプターは社交会の2番目に古いチャプターなんだけど、非常に崇高なチャプターだ。君の彫刻が拍子になっているよ。社交会について考えるとき、我々は君の彫刻を思い出す。そして世代から世代へ受け継いでいく。この組織に来る者はみな、君の作品を見慣れているんだよ。

リチャード (Richard): それは大変面白い。そうだな、ちょっとわからないな。あの彫刻をハワードに送った人物はホバート・テイラーJrという人だ。1彼は、そのグループの一員だったのかもしれないけど、それはちょっと偶然すぎるな。

Faheem: 確認するよ。考えたこともなかった。いつも君がその過程に深く関わっていたと思ってたから。

リチャード (Richard): 君がその過程という時は…

Faheem: 設置だよ。だから、彼はそれを買ったんだ。

リチャード (Richard): 設置にはいくらかかかわったよ。でも、ホバート・テイラーJrと私で、ハワードに行ったかどうかを思い出そうとしているんだ。でもその時、彼はハワードの管財人だった。彼は、弁護士で、いろんなことに関わっている。彼に出会ったとき、彼はほとんど事業に関わっていた。でも、彼はテキサスにいた。プレイリー・ビュー A&M大学の学部制だった。わからないけど、その後ハワードに行ったのかもしれない、でもそれから、結局ミシガン大学で法学士の学位を取ったんだ。何年も彼は管財人だった。実際、3つのうちの残りの2つについても、購入の交渉に関わっていた。ミルドレッド・アンドリューズ基金がコミッションしたんだ。彼は、コミッションの改訂で管理者と仕事をしていた。彼が亡くなった時、バージニアのミドルボローに不動産があった。馬の国だよ。それで、とにかく彼はなくなって、彼らに作品を寄贈したんだ。

Faheem: で、現在では人々が訪れて、腰かけるようになった。多くの人々が、作品の周りに座っている写真をたくさん見るよ。全部のポートフォリオを持ってくるよ。でも、その影響を考えると…。ほら、これが2つの作品だよ。リチャードだって途中で分かったんだ。意欲的で、そうなりたいと思ったんだ。で、結局シカゴに引っ越したんだけど、リチャードがシカゴにいることには、ほんとに気付かなかった。私のインスピレーションについて話すと、芸術品収集家や人々が、「彼はシカゴにいるじゃないか」って言ったんだ。ここに来て最初の州さ。それで、スタジオを探して、近所中を探し回ったんだ。ジョン・メイソンって男がいて、私の友達のエリック・ニックの友達だったんだ。それで、私は会いに行った。夏中一緒に過ごして、仕事を手伝って、働くところを見てたんだ。だいたい2003年ぐらいかな。

リチャード (Richard): ほう。覚えているよ。

Faheem: 私が行ったとき、君に彫刻を持って行ったのを覚えているかい?

リチャード (Richard): そうだ、そうだ。ベントン港の我が家にあるよ。

Faheem: 彼は、「なんでこれを僕にくれるんだい」って感じだったよ。

リチャード (Richard): ちょっと圧倒されて。つまり、誰かが素晴らしい彫刻を持ってくるなんて、毎日あることじゃないからね。

Faheem: 私にとっては、「ずっと知ってたよ」って感じだったよ。だから、そう、私たちはそのころから友達なんだ。そして、リチャードは親戚のように思ってる。特に私の芸術活動ではね。先生として、そして例を示してくれる人としては、私の芸術活動の重要な部分になっているし、考えることが多いよ。

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I said ‘This would make a great studio.’ One thing led to another and I was able to get it. In those days when the neighborhood wasn’t the neighborhood you see now, it was something an artist could do. It would be hard to now.


アッシャ(ASHA):この建物について、少しお聞かせ願えませんか。あなたは、確か40年以上も住んでいらっしゃる。

リチャード (Richard): いいですよ。私は1971年から住んでいます。1971年の終わりごろ。不動産事業の弁護士をしている収集家仲間がこの変電所だった建物を見つけてくれました。変電所として建てられたんですが、閉鎖されました。それで、シカゴ輸送局の建物の一部になりました。シカゴの鉄道会社が建てたもので、市のあらゆるところにたくさんの線がありました。レールの上を走っていたストリートカーが、通りを往来していました。近くにリンコリン通りという通りがあって、ダウンタウンから北西に斜めに走っていました。ストリートカーの線の1つでした。通りの向こうの公園は、その一帯をすべてトローリーバーンでした。それで、この建物は、その近くにあるんです。1いずれにしても、シカゴ運輸局は、東に向かう赤色の線、茶色の線、紫色の線をトラックを上に作り、下に新しい空間を作りました。ここを空間にしたのです。それで、私がコミッションをしていた私の弁護士の友達が「素晴らしいスタジオを作る建物を見た」と言ってきました。それで、私たちはここを見に来て言いました「素晴らしいスタジオが作れそうだね。」1つからもう1つへ導かれて、私はここを得ることができました。当時の近所の人たちは、現在の人たちとは違います。芸術家だからできたのです。今だったら、難しいでしょうね。ここを買うことができるファーヒムのような人を連れてこないと。彼は、途中でしたから。

Faheem: やっています。私はやっています。でも、近所の人を覚えています。あなたのスタジオに建っているようでした。

リチャード (Richard): あなたが来始めてからの数年間でさえ、ここは中流化しています。今はもう、まったく…。

Faheem: 階級ばかり。

リチャード (Richard): 現在は、まったく中流化しました。階層のてっぺんに階層、また階層。リル・ストリート・スタジオ…西へ向かって工業用建物があり、現在はその団地になってしまいました。彼らは、所有物を売って、さらに大きな建物をモントローズやラベンズウッドに建てました。

Faheem: まあ、それではそれが同じものなんですか?考えもつきませんでした!

リチャード (Richard):  リルストリートは、長く親しまれてきた名称を変えないことを決めました。現在は、モントローズとラベンズウッドにありますが、リルストリートと呼んでいるのです。1

Faheem: まだリルストリートと呼んでいるんですか。なぜか、全然つながりがわかりませでした。彫刻家だった人が、バンパーや馬にも使用され、多くのことをなした同じスタジオではありません。

リチャード (Richard): ジョン・キーニー

Faheem: 彼はリルストリートと一緒ではありませんでしたが、スペースを持っていました。

リチャード (Richard): グラント・プレースを持っていて、それは旧グラント・メモリアル病院の通りをはさんだ向かいにありました。彼は、数年前に亡くなりました。とにかく、ここは彼と妻が最終的に所有していた建物で、最初は「現代芸術ワークショップ」としてスタートしました。ジョンには、数人のパートナーがいました。彼らもなくなったか、この地を去りました。彼と妻は、建物とともに残り、アートセンターとすべてを運営しました。彼が亡くなった時には90代でした。

Faheem: 彼らは非常に良い夫婦でした。私は彼らのスタジオに引っ越すつもりでした。それは、彼が作業をやめてしまったからです。

リチャード (Richard): 彼らのスタジオに引っ越すおつもりだったんですか。

Faheem: 彼らのスタジオに引っ越すつもりでした。彼女は「そうね、主人が金属で働いているし、あなたも金属で働いている。引き継げるわね。」という感じでした。しかし、人が引っ越すには懸念がありました。彼女の夫は私が当時行っていた方法と同じ方法で作業をしているかということです。彼らは、「たぶん、ガス…みんなこの上にいるから、やめた方がいい。私たちはここのすべての人たちとここへ移り住んだ。いい考えじゃないかも。」と言いました。

エリック・ステファンソン、デーブ・ノグチとジョン・メイソンを覚えています。2ここで一緒に作業した仲間の一部です。自分で作品を作る芸術家です。 

リチャード (Richard): はい。

Faheem: スペースについてと言えば、この作品が見えるでしょう。また、裏庭にもあります。どうして金属がここにあるのか理解できない人もいました。彼らは、この新しくてピカピカの家を手にしました。そして、「馬鹿が向こうの庭にいる」とか、文脈を理解されませんでした。しかし、この時点で、みな非常に幸せでした。あなたはマップクエストのマーカーになっているのをご存知でしたか。

リチャード (Richard): え、知りませんでした。

Faheem: この場所にあなたが近所にいるということを誇りに思っているということです。

リチャード (Richard): あなたは、隣に引っ越してきた人に告げなければなりません。これは変なことですが、この地は手を変える。ここを買う人は、もともと所有物を他の工場の建物から持ってきました。1つの建物だけれども、3つの市のロットを持っている。したがって、3つの団地がそこに建てられました。そして、その人は、私のちょうど隣で暮らしています。彼は、最終的には売りました。現在では2倍になっているでしょう。現在の所有者は中庭に座って外を見ています。

Faheem: “視界の邪魔”

リチャード (Richard): スクラップの金属を持っている。

Faheem: 他人はわかるかも知れないと思うけど、すべては価値の問題なのだ。

リチャード (Richard): 彼にそういったが、彼はそれでも気に入らなかった。実際、彼はこの建物をデパートと呼び、「この人がすべての物を持っている」といった。だから、とりあえずやり過ごした。

Faheem: やりきったと思った。

リチャード (Richard): 人は来ては去る。

Faheem: その通り。何度も繰り返した会話だ。

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I got interested because of artists that I saw. Julio Gonzalez, Picasso, David Smith. I got interested in working with metal.


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アッシャ(ASHA):今オーディオなので、あなたが作業する材料とそれらの材料から作り出す形式について説明してください。

Faheem: 私が最初に。元々はリチャードに描いたものでした。私はたくさんの見つけた鉄で作業します。集めるんです。そして多くの形成作業を行います。しかし、年数がたって、私の関心は木に移り、使う材料に関して、よりルーズになりました。より最近では、近くの道で見かけるような板で作業しています。面白いことは、リチャード、欲しかったスタジオを最終的に手に入れたことです。すべての道具はガレージにあります。崩れそうにすべてはホイールの上にあります。しかし、現在では、金属ではあまり作業はしません。なので、友達が来て使用します。そして、私は「最終的に手に入れて、今はここで違うことをしてるよ」という感じです。しかし、私はまた戻るつもりです。常に初恋に戻るものです。そう、最低でもこの場合はね。常に初恋に戻らないかもしれない。しかし、私は戻る。似てるけど、違う。今いろいろ模索しているのです。

リチャード (Richard): 私は、自身のプロとしてのキャリアを通して、ほとんどを金属で作業してきました。最初の作品は、木と金属を組み合わせました。そして、50年代から60年代に戻っています。私は、その時の比較的新しくていくらか挑戦的なものに出会った若き芸術家のように非常に感銘を受けています。直接金属で作業する。型にはめる。金属の部品を集めて彫刻を作る。実際、私が芸術学校の学生のころは、芸術学校は芸術的訓練の場所でした。クレイ型、プラスターの使用、彫刻もありました。私は彫刻は少ししかやりませんでした。私に合わなかったのか、私が彫刻に合わなかったのか。

会った芸術家のおかげで興味を持ちました。フリオ・ゴンサレス、ピカソ、デビッド・スミス2金属で作業することに興味を持ちました。それから続けることになりました。当時の学校では、ほとんどの芸術学校と同様に、ほとんどは鋳造か彫刻でした。そして、鋳造のほとんどは、銅かいくつかの他の素材を使用しました。溶接や彫刻向けの設備は学校にはありませんでした。溶接トーチといくつかのツールを得ることができました。両親の家の地下室でモノづくりを始めました。そして、一歩ずつキャリアを構築していきました。しかし、私の中年時代は金属でした。ほぼ直接の金属。直接の溶接。金属の製作。時々、キャスティングもしましたが、私の作品の15~10%程度でした。

Faheem: ビル・テイラーは、両方で非常に熟練していました。鋳型鉄だけでなく彫刻も。私がやらないことでした。減法に関する何か…。わかりますよね。

リチャード (Richard): はい。長い石の1つを持って、そこから物を取り除く。

Faheem:「その中にある!どうしてほしいかを言わせてやるんだ!」

ああ。見える。でも足がないぞ。これに何とかしてやりたいけど、粒のせいでやりたいような方法でできない!」

リチャード (Richard): 異なる種類の基質だったと思います。

Faheem: はい。

リチャード (Richard): 何年もたって、私はより大きな規模の作業を開始しました。より大きな金属を得たのです。大きな石や木片が欲しければ、「より大きな気を取りに行け」とう感じではありませんでした。そして、そう、時代とともにあった素材のように思います。より工業的な。

Faheem: 現代のように容易ではありません。今では貴重です。始めたころを創造すると膨大な鉄のようです。ある場所に行って見つけることができました。

リチャード (Richard): そう、実際は現在でもできます。実際、金属市場は、先物の観点からみれば、低迷しています。

Faheem: その通りです。現代では、ショッピングカートの周りを猫がうろつくところを見ません。あまりお金にならないのです。

リチャード (Richard):  ここ数年、面白くなっています。価格変動と金属産業の大きな競争という事実です。多くの金属製造業があります。鉄、銅、すべての物がこのアメリカにあります。実際、昨日や今日の新聞に、世界最大の製鉄企業のUSスチールに関する記事があります。工場は、シカゴの南のはずれにありました。閉鎖されましたが。

Faheem: はい。開発はしないようですね。

リチャード (Richard):  そうです。しかし、アラバマとテキサスの向上も閉鎖すると発表したばかりです。3つか4つの工場が閉鎖されます。

Faheem: 経済が荒廃してしまいます。

リチャード (Richard): しかし、この特定の時期には確実に…

Faheem: 彼らは大きな工場を持っています。サウスショアでしたっけ?ちょうど端にある…カリュメット?

リチャード (Richard): ええ、サウスショアから拡大しています。

Faheem: それは巨大ですね。

リチャード (Richard): サウスワークスと呼ばれています。現在は、何もないエリアですが開発者がやろうとしている…

Faheem: やろうとしている。開始しようとしています。

リチャード (Richard): オバマ図書館ができればいいと望んでいます。実際はそこからダウンタウンまでの大きな見通しがあります。

Faheem: 素晴らしい土地です。つまり、ポテンシャルがあります。おそらくマリアノの

リチャード (Richard): マリアノまたはホールフードが、そうすると発表しました。しかし十分な人々が来ていません。2

Faheem: この夏、カミュレット市で複数の協力者と住居に取り掛かっています。そして、私たちは、あのエリアをほんとに探索しようとしています。明らかに活気のある話題の1つです。というのは、そこのコミュニティに大きなインパクトがあるからです。何かが起これば、生じます。それは、しかしそこからコミュニティが実際に利益を得られれば、わかりませんが…

リチャード (Richard): 常に、その対象となります。

Faheem: 何かが起きようとしています。「土地対人」土地は、非常に潤いますが、そこの住民がそれほど利益を得るかどうかは、わかりません。

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…there’s a kind of a Midwestern edge to my way of looking at things.


アッシャ(ASHA):最初にソロで行ったショーまたは例えばどこかの時点で意味深かったソロでのショーについてお話しいただけますか。

Faheem: 最初のショーではないかもしれない。しかし、私にはMCAでのショーが非常に重大な局面でした。ずっと忘れられないでしょう。最初のソロでのショーは、小さくて、そういう感じのフェードでした。しかし、その時、「おお、これは非常に大きな瞬間だ」と思いました。

リチャード (Richard): 思い出せることの1つには、ニューヨークがラリーでのショーがあります。アレンギャラリーと呼ばれていました。1958かなあ、そう、58年。11月かその辺でした。アートワールドへの私の紹介で、成功したショーでした。私は、従軍しなければならなかったので、行きませんでした。私は保留、つまり延期を数カ月ぐらい得て、ショーのために作品を仕上げることができました。ギャラリーのオーナーは、私に関するドラフトしてくれました。

Faheem:  それは私たちが必要としていることです。私たちは、ギャラリーのオーナーが必要なのです。

リチャード (Richard): ショーは成功し、軍を出ることがより心配になりました。

Faheem: どれくらい軍にいたんですか。

リチャード (Richard): 年間です。ドラフトしてもらうと、一般的に2年間になります。

Faheem: それでそうされたんですか。

リチャード (Richard): ほとんどの時間をブルック陸軍医療センターで終えました。そこでは、基本的なトレーニングを受けました。2軍の芸術家としての職を得て、多くのことをしました。芸術のクラスで教えたり、標識を描いたり。

Faheem: 今でも持っているものはありますか。

リチャード (Richard): いいえ。どれも持っておく価値はありませんでした。ただの仕事です。彼らは、「どこへ行け、これをしろ」だけでしたから。

Faheem: 芸術家の定義は、そこでのものとは全く違います。

リチャード (Richard): どこにいるかによります。このベースではこれは、その、あまりいうことはありません。終わったことです。すべてのことは、遅かれ早かれ終わります。年間はすぐに過ぎ去りました。

Faheem: 私の最初のソロでのショーは、ここシカゴでした。文字通り最初のソロのショーは最近47番地とキングに建てられた、ハロルドワシントン文化センターの小さいスペースでした。とても小さなギャラリーでした。このショーから、私は多くを学びました。これらのフィギュアを持っていました。私は、フィギュア的な作品を作っていました。とても興味深かったです。ほんとに、無価値な素材の概念でした。私は、人とカートと金属について多くのことを考えました。そして、どのように同じ金属が、無価値に見えるかについて。しかし、金属を選択し、皆が集まるような何かを作り上げえました。羽の付いたフィギュアのようなものでした。私はそれを天井からつるしました。出たり入ったりする特殊なフックにほんとにわくわくしました。そして、それはほんとに大きなものでした。50ポンドか100ポンドくらい。そして、その後、来てくれた人々は、喜んで来てくれたんだ、しかし、人には吊るされた鉄なんて必ずしも必要ではない。彼らの上には「上からの死」のようなものです。そう。それが私の最初のソロでのショーでした。そして、多くの方法で私はフルタイムで芸術活動を始めるようになりました。最終的に元に戻り、他のことを始めました。しかし、あれが私の最初のショーでした。シカゴのスチルライフと呼ばれるギャラリーで、最終的にすべてを燃やしました。

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There were a number of sculptors in Chicago who had started to work with metal. You’d get to know one another, be in exhibitions. You’d get to know one another just like we got to know one another. 


 

アッシャ(ASHA):あなた方お二人は、自身の出身地がどのようにあなたの作品を形成しましたか。地理的、そして活動を形成し始めた時代について。

リチャード (Richard): 私は生まれもほとんどの成長過程もシカゴで過ごしました。1935年生まれ。そして第2次大戦中、そしてその後の朝鮮戦争、ベトナム戦争、公民権運動の中で成長しました。子供のころは、ただ成長するだけです。しかし両親や親戚はそれにより影響を受けました。大人だったからです。私の家族は、時々イリノイ州のゲールズバーグで過ごしました。ここは、アイオワ州との州境に近く、私の母が育ったところです。ゲールズバーグは、マンモス群の近くの町で、母が育ちました。そのエリアの様々な街に親戚がいました。とにかく、そこに数年住んでいたので、私の者の見方には中西部の一端があります。

Faheem: あなたが立っている写真があります。あなたはまだ高校生か大学生ですね。廃品置き場ですね、南側の。

リチャード (Richard): 廃品置き場ではありません。

Faheem: ほんとにパワフルな兄弟です。バンパーを持った男は…

[笑い]

リチャード (Richard): あのころまでは、クリーブランド、1503クリーブランドにスタジオを持っていました。オールドタウンからのドライビングラインはノーズアベニューだったので、ノーズアベニューのちょうど南です。そして、廃品置き場は、シェフィールドとクリボーンの過度にありました。今は、大きなショッピングセンターになっています。そして、私は、サウスサイドで育ちました。私たちは、ウッドローンに住んでおり、そこで数年間過ごしました。エンゲルウッド。そして、ゲールズバーグへ行きました。そしてまたエンゲルウッドへ戻りました。なので、エンゲルウッドで育ちました。エンゲルウッド高校へ行きました。そして、軍から戻ってきたときは、ノースサイドの居を構えました。最初に借りた場所です。そこは、ステート通りの414アートワークショップと呼ばれるアートセンターとして使用されていました。412 Nステート通りはハブバードの角でした。多くの芸術家がそこともっと北に住んでいました。それからは、私はクリーブランドに建物を購入することができ、ここへ来る前に長年住んでいました。クリボーンとシェフィールドからそう遠くないところに廃材置き場があり、そこで写真を撮ったのです。

私はすべての場所に行ったでしょう。シカゴには金属から作品作りを始めた彫刻家がたくさんいました。私たちが知り合いであるように、あなたもお互い知り合うべきでしょう。あなたと同じことをしている人に出会えるでしょう。しかし、いずれにしても彼らは、「向こうにあるんです」というでしょう。そうしたら、見てみるといいでしょう。異なる廃材置き場があります。いくつかはサウスサイド、さっき話したUSスチールのそばにあります。その辺には多くの金属があります。多くの人が廃材の金属を集めて売っている金属の施設がありました。そして、彼らはそれらを一緒にして売っており、たくさんのものを持っていました。サウスサイド、サウスサイドの遠方にはそんなところがたくさんありました。しかし、いずれにしても、そういう芸術家がいました。その中の1人は、ロイ・フランクと言いました。もう一人は、コスモ・カンポリと言って、あまり溶接をやりませんでした。彼は、カーニーで作品を作り、彼らは現代アートワークショップに関わっていました。2ジョー・ガット、レイ・フランク、ハリー・ボリスがいました。だから、いずれにしても、シカゴ時代は多くのチャンスが提供されていました。

もう一つ、第二次世界大戦の影響で、別の場所から越してきた芸術家もたくさんいました。ボーホースにいた芸術家のすべての、私が芸術学校の学生だった頃に学生だった芸術家でした。芸術学校に通い、戦争のためにその場所を離れました。私の先生もいました。なので、実際国際的な環境でした。

Faheem: 大都市としてのシカゴへの戦争の影響…私はいつもボーホースとその他の地域について考えます。というのは、サウスサイドコミュニティアートセンターとそのデザインに私は関係性があるからです。2私たちは、微小な泡のことを考えていたと思います。実施には交差点とはならないことのような。もちろん、彼らは市を移動しました。もちろん、彼らは会話や会合の中でおーばラップした創造性に触れていました。

リチャード (Richard): 彫刻の教師として影響を受けた2人がいます。2人はヨーロッパから来たユダヤ人でした。1人はドイツ、1人はオーストリアでした。彼らはここにはいなかったはずです。あのことがなければ。

Faheem: 戦争。

リチャード (Richard): 彼らはドッジをでなければなりませんでした。

Faheem: そこで、時代を考えると、私がリチャードと最初にあった時に尋ねたことの1つでした。私は、この時学校を出るところで、黒人の芸術家という概念と黒人芸術家について考えていました。リチャードに「どのように芸術家になったのですか」と尋ねました。なぜなら、私は当時、私の人種が私の前に部屋に入った時、すべての物が私につけられました。そして、私は彼にこの質問をして、彼は言いました。そして、あなたは覚えているかどうかわからないけど、とてもふかいものでした。彼は、「黒人の芸術家のいないときにこれをはじめたときのことを君は理解すべきだ」。彼らは別の者として呼ばれていました。そして、黒人という用語は、「黒人は美しい」が現れた60年代に登場しました。そこ洗えたことは、最終的には「芸術を作る必要がある。作り続けなさい。ただ作り続ける」ということを学びました。そして、彼はまた、フルーツスタンドについて考えながら言いました。「オレンジを路上で売るとしたら、十分に長くやらなくてはならない。最終的にあなたはフルーツスタンドを持つことになる」。作品をただ作り続ける。作り続けて、製作し、スタジオに持っていくことなんです。常に製作し続ける。常に作業する。あなたの中心に、作業が必要なのです。そして、それが心に刺さったことでした。現在心配していることは、40年後には変わっているのです。

リチャード (Richard): 時間は常に変化します。私が「製品としての芸術」とでも呼ぶものがあります。フルーツスタンドや彫刻スタジオを持とうと…。より多くのアイデアを基礎にした芸術のキャリアが次から次へと出てきます。そして、どうやればいいかわからないけど、アイデアを詰め込んで売る方法があります。それは、次から次へと。そして、アフリカ系アメリカ人と黒人芸術家の間でも次から次へと出てきます。

私たちは、現在芸術の世界の変革のさなかにいます。あなたはそういう記事を常に見るでしょう。非欧州、非西側の人々が芸術の作成に幅広く貢献する世界の認識について。以前は動であったかを振り返るもう一つの方法は、民族的視点と様々な人々の削減です。これは興味深い挑戦でありチャンスです。アフリカ系アメリカ人、黒人、または誰であろうと、この語が頭に浮かびます。「先住民」のアフリカ系アメリカ人芸術家。[笑い]アフリカからは非常にたくさんの移民がいるため、「アフリカ系アメリカ人」なのです。ポーランド系アメリカ人、イタリア系アメリカ人がいるように、そのルーツはほかにあります。だから、私のような人は、その系譜を知らないんです。

Faheem:「私はデトロイト生まれだ!」[笑い]

リチャード (Richard): アクラで生まれた人は、「どうして自分のことをアフリカ系アメリカ人というの?デトロイトで生まれたでしょ」というでしょう。

Faheem: このショーでは、私がやっていることは複雑です。時にはこの単純さがあり、ちょうど「おお!黒人」。でも非常に複雑な意見です。多くの異なる皮膚です。しかし、そう、とても興味深い瞬間です。

私にとっては、材料に非常に密接したスペースで訓練されました。そして、このサウスサイドコミュニティアートセンターを経営するこのスペースに移りました。修辞的には、私には両端があります。リチャードとマーガレット・バロー。21つは深遠な彫刻家。ほんとに彼が作る形式に導かれました。そして、ここにいることもそのように学びました。マーガレット・バローは芸術家でしたが、芸術家としては有名ではありませんでした。学校と、教育へのこのような形での献身で有名でした。なので、私は2つのことが浮かびます。私が愛するこれらの学校が片方に、もう片方には彫刻家であること。私には彫刻が必要です。私は創造したい。ですから、私の仕事には2つの重要な部分があるのです。

 
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For me at the MCA, that’s a significant moment I’ll never forget.


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Figuratively, I always have two edges. Richard, and Margaret Burroughs. One, a profound sculptor. Really leads the way through the forms he makes. And I learned in that sort of way, of just being here. Margaret Burroughs who was an artist, but maybe wasn’t renowned as an artist. It was about institutions and dedication to educating in this other sort of way.


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I was born in Chicago. Moved away when I was two. Went to the South where my father was a politician and came from a family of politicians in North Carolina specifically.


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I believe there are artists that really want to be artists…and then there are artists who ‘really would like to be’ artists.


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Faheem: 私はノースカロライナの出身です。シカゴで生まれました。歳の時に引っ越しました。父が政治家をしていた南に行き、具体的にはノースカロライナの政治家一家に生まれました。

リチャード (Richard): ノースカロライナのどの辺ですか。

Faheem: ローリーです。ライトナー家。クラレンス・ライトナーは、ローリーの初代市長です。2私の父は、ローリーの葬儀社で育ちました。ですから、良く知られた家族です。のちにシャーロットに移り住み、最終的には、自分の力で政治家になりました。私の母はソーシャルワーカーでミネソタの出身です。両親が別居したとき、母はミネソタに帰り、薬物乱用に関するエージェンシーを経営しました。ですので、政治とソーシャルワーク…そして、私は芸術家。私は「ハワードに行って芸術家になる」と言いました。彼らの世界には触れたくなかった。現在は、私の仕事の多くは、彼らの世界につながっています。

また、恋人のためにシカゴに戻ってきて、サウスショアで両親が住んでいた家から4ブロック離れたところに住んでおり、考えられました。同じ通り。偶然ですが、同時に宿命です。

時間と空間。私は、ハワードで1つの方法を訓練したことをお話ししたと思います。シカゴ時代には、大学院に戻ったのですが、そこは非常に異なっていました。もっと明確な概念的…リチャードが少しほのめかした感じでした。これらの2つを一緒にする。私はシカゴである意味、再度生まれなおしたのかもしれません。この時期を生きて、ほとんど芸術とは学術的であると考えられていた時代。そして、シカゴ特有のものであったかもしれません。というのも、私たちの偈頌塚野学術分野との関係があったからです。芸術家はじっとしていて、学術の場へ移行しました。あるいは、私が学んだことかもしれません。私はこれらの2つの帽子をかぶったからです。リチャード、私はあなたは1つの帽子をかぶっていると思うよ。

リチャード (Richard): 帽子をかぶってる?

Faheem: あなたは彫刻家だ。そして、とても明確だ。「それはいいことだが、私はこのグラインダーを得るところなんだ。作業しなくちゃ。」学校を出てすぐにあなたは走っていた。そして、ずっと走り続けている。建設と創造。この地球により働いてより存在感を出している彫刻家はほかにいないよ。あなたの彫刻はいつも背景にある。どこを向いてもね。私は南の郊外にドライブしていても…[笑い]

リチャード (Richard): そう言ってくれてありがとう。

Faheem: 他の芸術家も特にシカゴでは、食べるために複数の帽子をかぶらなければならない。「これをやらなきゃ、あれをやらなきゃ。食べるために、作品を作るために」私は、学校にいたころのようだと想像しています。

リチャード (Richard): つのためでなく、学校に行くほどのお金はかかりません。そして、また本当に芸術家でありたい芸術家もいます。そして、芸術家で「本当になりたい」芸術家がいます。

私は、レッド・グルームやベニー・アンドリューズのような人々と学校に行きました。たった2人です。彼らは学校を終了することもなかった。彼らはニューヨークに行くことを決断していました。芸術が行われているからです。芸術でキャリアを積みたいなら、行くべきところでしょう。彼らは、仕事やギャラリーを持っていたのでいかなかった。彼らは、なんでも行われているところへ飛び込もうと割断しました。彼らは、芸術家としてのキャリアを持っています。彼らは他のこともやっていますが、ギャラリーに展示し、美術館のコレクションのすべてに作品があります。また、レッド・グルームについては、このような活動の1つか他でコミッションをしています。私が言いたいのは、時間を経て、多くの人0日とは様々な種類の芸術のキャリアを選ぶものだということです。人々の中で、芸術学校に行った人のパーセンテージがあり、現在では以前よりたくさんの芸術学校があるのです。

Faheem: その通り。

リチャード (Richard): 私が芸術を考えるときに思うことの1つは、あなたはMFAを取ることはできるけど、芸術家になるための最小上限や実際の認証プロセスなどないということです。これは、会計などのある種のコースに興味を持ち、様々なことに合格して認証される種類のことではないのです。ですから、あの2人が思い浮かぶんです。レッド・グルームは南部出身の白人でした。

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He said, ‘Well what you’ve got to understand is when I started doing this there were no black artists.’ They’re weren’t called ‘black’ artists. They were called something else.


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リチャード (Richard): 私が[学校で]読んだすべての芸術の歴史の中で、面白いと思うのは、アジア芸術の章でした。しかし、欧州や西側の視点で書かれていました。

Faheem: ほとんど翻訳みたいな感じ。

リチャード (Richard): それで、もちろん私には背景や文脈がないから、北イタリアの芸術について書いた誰かが、北イタリア出身でも、イタリアに長く過ごしたことがなく、前の世代であるかのようです。私は、多くの人が…その、グローバリゼーションのもう一つの側面に興味があります。人々がここに来れば、多くの使用の意味や何が芸術を定義するのか多様です。そのようにして、私は学生として成長し、作品が設置された美術館に行っています。西ヨーロッパの芸術、ルネッサンス、そしてすべての他の場所からの芸術を知ることができます。そして、その他の芸術は、知ることもできないのです。

Faheem: あの特別室。

リチャード (Richard)あれは面白いと思います。ギャラリーが、1880年から現在まで芸術学校であった事を示す異なる計画を見ることができます。そして、中に入るとここにギャラリーがある。そして、トラックを横切って下ると、アジア芸術があります。

Faheem: 不動産。不動産に基づく価値。どれくらいの時間が…

リチャード (Richard)ゴールドコーストがある!

Faheem: その通り。美術館に赤線を引くみたいに。

[笑い]

Faheem君に持ってきているものがあるんだ。

リチャード (Richard): 彼はいつも何か持ってきてくれる。

Faheem: 今取り掛かっているものなんだけど。ほんとに異なるもの飛び込んでみるのって面白い。これは私のスケッチブックからなんだけど。マーガレット・バローの署名を真似しようとしているんだ。

リチャード (Richard): ちょっと待ってよ!

Faheem: だから、まずこんな風に…でも今は運櫃としてこの署名を使っているんだ。私がやっている一連の絵画なんだ。面白いよ。「伝説の署名」って呼ばれているんだ。だから、これはその概念で…そのあと、消えてしまうんだ。前のは常にベースになっている。私は何かに夢中になっているんだ。でも、字はとても下手なんだ。

リチャード (Richard): 下手な字だけど、絵だと思うと…

Faheemその通り。

リチャード (Richard): そして、それが芸術について語ることだと思うんだ。変形。

Faheem: そして、彼女の実際の署名を埋め込むことも。2

リチャード (Richard): 彼女が形成の仕方に関して、君は作業をしたんだ。面白いね。面白いよ。私には、出ていく途中で見せるものがあるんだよ。先週の週末、私はフィラデルフィアに行ってノーマン・ルイスのショーを見たんだ。2そして、その中で面白かったことの1つは、私が知らなかった彼の絵画がたくさんあったんだ。この後ろ。あなたはあるものを何度も見る傾向があるね、カタログや調査とか。あの作品は、何度もみさせるよ。

Faheem: そうか。でもその他のものは…

リチャード (Richard): そして、沈痛なものもあった。あのライン…ただ面白かったよ。あなたのすることが思い出させるよ。

Faheem: もっと時間を費やしたいと決意したことがあるんだ。思考。「ちょっとの時間を使わせてくれ。そして、もっと大きなもののこの小さな部分で何ができるかを考えたい」。

リチャード (Richard): いいじゃない。

終わり


Asha Veal Briseboisによる元の質問

 

1) お二人はお互いにどうやって知りあったのですか。

2) お互いの仕事をどのようにして認識しましたか。

3)ファヒームさん、ハント氏の作品と活動はどのようにあなたに影響を与えましたか。

4)ハントさん、Lill Streetの建物の歴史について教えてください。 あなたは40年以上ここにいましたよね。 それは元は発電所だったのですか。

5)彫刻家としての習慣について、それぞれ少し教えてくれませんか。

6)一緒に作業する材料について説明しますか。

7)あなたの作品に与えた題名を説明しますか。

8)あなたの構築プロセスは何ですか。

9)公共芸術としてのあなたの作品の役割は何だと思いますか。また どのように一般の人々が交流することを望んでいますか。

10)SAICとHowardのそれぞれの芸術学校でのあなたの時間はどうでしたか。

11)あなたの最初の公共単独ショーについて教えてください。

12)シカゴ…アメリカ南部と中西部の、どこからあなたの活動を形成しているのですか。

13)シカゴに伝えたい遺産は何ですか。

14)あなたの仕事はどのように政治的に徐々に対応するようになりましたか。 


[1] “Established in 1867, Howard University is a federally chartered, private, doctoral university, classified as a high research activity institution.” Howard is one of America’s historically black colleges and universities. https://www2.howard.edu/

[2] James King, a metal sculptor, also attended the School of the Art Institute of Chicago, dates unknown. His public work acquired for the Howard University campus is catalogued on the following we source: https://www.howard.edu/library/imagesofthecapstone/Lady_Fortitude.htm

It’s interesting to be aware of and observe the collection of black art by African American artists on the HBCU campus Howard. Considering the black academic institution as a site of cultural and art preservation in American and black American heritage, much in the way that museums and sculpture gardens function.

Additionally, although certainly not art history majors, I think of the art historical education that the students receive and may be inspired to investigate further by virtue of being on campus.

[3] Mel Edwards.  http://www.alexandergray.com/artists/melvin-edwards

According to his bio at Alexander Gray Gallery, Mel Edwards was the first black American sculptor to have a solo exhibition at the Whitney Museum (1970)

It must be stated that thorough this project on Richard Hunt, I’ve come to look up and become acquainted with several other of his contemporary sculptors, which has been quite unexpected and fascinating, and something I am very grateful for.

[4] “A Bridge Across and Beyond” http://richardhunt.us/?avada_portfolio=a-bridge-across-and-beyond

[5] “Freedmen’s Column” http://richardhunt.us/?avada_portfolio=freedmens-column

[6] William Taylor. http://www.legacy.com/obituaries/washingtonpost/obituary.aspx?n=william-taylor&pid=139780060

According to his obituary, Bill Taylor was an art professor as well as an artist-in-residence at Howard University

[7] “Symbiosis” (also known as “Bison”  https://www.howard.edu/library/imagesofthecapstone/Bison.htm

[8] Alpha Phi Alpha, is over 100 years old as an organization and was the first established collegiate fraternity for African Americans in the country.

[9] Hobart Taylor Junior http://www.nytimes.com/1981/04/04/obituaries/hobart-taylor-jr-60-past-trade-bank-head-and-law-firm-partner.html

According to his obituary in The New York Times, Hobart Taylor Jr. did attend Howard University of a Master’s Degree.

The University of Michigan maintains an archival collection of “The Hobart Taylor Jr. Papers, 1961-1981.” In the description to that archive, Hobart is written as: Attorney and businessman, associate counsel to President Lyndon Johnson, later director of the Export-Import Bank; correspondence, speeches, and oral history interviews; files relating to his work with Plans for Progress, a voluntary association of business and industry working to promote equal employment opportunities; his work on the President’s Committee on Equal Employment Opportunities, the NAACP, the Commandant of the Marine Corps’ Advisory Committee for Minority Affairs; topical files relating to Democratic politics in the 1960s, and his work with Johnson and Vice-President Hubert Humphrey; and photographs

http://quod.lib.umich.edu/b/bhlead/umich-bhl-85542?view=text

[10] Jonquil Park, located on the three-way intersection of Lill Street, Sheffield, and Lincoln Avenue.

[11] When it was located down the street from Mr. Hunt’s studio, Lill Street Studio existed in a renovated horse barn. http://lillstreet.com/aboutus

[12] John Kearney. http://www.chicagotribune.com/news/obituaries/chi-john-kearney-obituary-20140811-story.html

Sculptor John Kearney’s work is also visible in the Lincoln park neighborhood parks, most notably the figures in Oz Park, located on Larabee and Lincoln.

It’s interesting to think about the type of artist community that used to exist in Mr. Hunt’s Lincoln Park neighborhood and has since moved on or been pushed out. He is perhaps a literal ‘last man standing.’

[13] Eric Stephenson. http://www.sculpture.org/portfolio/sculptorPage.php?sculptor_id=1003428

David Noguchi http://davidnoguchi.com/

John Mason

[14] Julio Gonzalez. http://www.lemonde.fr/culture/article/2007/07/04/julio-gonzalez-la-revolution-du-fer_931469_3246.html

David Smith. http://www.davidsmithestate.org/

[15] Former Mariano’s plan to acquire U.S. Steel land in Chicago: http://www.chicagotribune.com/business/chi-marianos-new-store-south-chicago-20140709-story.html

[16] Faheem Majeed, at the Museum of Contemporary Art Chicago 2015: https://mcachicago.org/Exhibitions/2015/Faheem-Majeed

Incidentally, this is the first museum exhibition that my grandmother, who happened to be in town visiting, has ever seen. I took her and mother!

[17] Brook Army Medical Center, San Antonio.

[18] Joseph Gatto. http://www.latimes.com/local/lanow/la-me-ln-artists-remember-joseph-gatto-20131114-story.html

Ray Fink. http://redmodernfurniture.com/2014/02/10/ray-fink-wood-panel/

Cosmo Campoli. http://smartmuseum.uchicago.edu/blog/the-roster-cosmo-campoli/

Contemporary Art Workshop (archive at the Chicago History Museum) http://chsmedia.org/media/fa/fa/M-C/ContemporaryAW-inv.htm

[19] South Side Community Art Center. http://www.encyclopedia.chicagohistory.org/pages/73.html

Bauhaus http://whc.unesco.org/en/list/729

[20] Dr. Margaret Taylor Burroughs, a Chicago icon and one of the lead founders of the DuSable Museum of African American History. ‘Dr. B’ is yet another graduate of SAIC, in art and art education.  http://www.artic.edu/aic/resources/resource/982

http://www.nytimes.com/2010/11/28/arts/28burroughs.html?_r=0

[21] Clarence Lightner.  http://www.blackpast.org/aah/lightner-clarence-everett-1921-2002

[22] Red Grooms. http://www.pbs.org/hanshofmann/red_grooms_001.html

Benny Andrews. http://www.georgiaencyclopedia.org/articles/arts-culture/benny-andrews-1930-2006

[23] Ben Fuqua, classmate.

[24] Faheem Majeed, performance on legacy and Dr. Burroughs’s signature in Chicago 2015: https://www.facebook.com/events/1689461057965475/

 

  • 英語から翻訳された

    Richard Hunt:
    http://richardhunt.us/

    Faheem Majeed:
    http://www.faheemmajeed.com/

    Asha Veal Brisebois:
    http://www.ashavealb.com/